●PG12

 この作品は流血などの残酷描写や、倫理に反する表現、意図的な誤謬表現などを含んでいます。


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 切れた糸は、残骸を残すことなく消えうせていました。それとももしかしたら、先の混乱で、残骸は飛ばされてしまったのかもしれません。
 流れ出る血液は、留まることを知りません。兄の黒い胴体を染めていきます。兄の腕の中で、舞は目を見開いて太陽を見ました。カッターナイフに反射されたときは眩しかったのに、今はぼんやりしています。ヴェールがかかったように、弱い陽光が、差し込んでくるのです。風景が混濁としていて、それなのに白いのです。まるで綺麗なのです。舞は口を動かしましたが、声が出てきませんでした。
 ケイが、ふたりに近づきました。金髪の男とともに、ふたりを見下ろします。ケイは表情を変えないまま、兄の頭を蹴りました。そのまま地面に踏みつけます。いよいよ頭痛がひどくなっていきます。兄はどうにか、舞に衝撃が加わらないようにして地面に横たえました。
 錆びた鉄の味がしました。兄の口を広がる微量の血液は、喉を潤すでもなく積もっていきます。
 今の舞は、ジャケットのマークとほぼ似たような状態でした。矢が刺さって、血が流れて。抉れた皮膚が朱色に染まっています。血液が染み渡った兄の服は、その本来の黒と相まって、黒ずんだ青に見えました。
「さあ、さっさととどめさそうぜ」
 金髪の男が、軽佻にそう発言しました。兄が目を、矢尻のように歪めます。
「まあ、慌てるな」
 ケイは口ではそう言いましたが、既にもう一本の矢を握っていました。この至近距離でも弓矢を用いるというのでしょうか。
「おいおい。矢はいらねぇだろ。そのナイフで充分だ」
 男は、ケイの腰元に吊るされていた刃物を指し示しました。ケイはそれを目視して、それから矢をもとのところに戻します。
「確かに、矢を無駄に費やす必要はない」
 ケイは依然として無表情でしたが、その声色はむしろ嬉しそうに聞こえました。淡々としていることに違いはないというのに、声は奥で優雅に踊っているみたいです。
 ケイは腰元のナイフを手に取りました。柄を握り締めて、しゃがみます。兄の顔をまじまじと見つめました。目が赤くなっています。金髪の男も、ケイにあやかってしゃがみました。舞の顔を眺めます。なにも見ていないような表情をしていました。まだ身体機能は停止させていないようですが、終着したバスのようになるのは時間の問題でしょう。
 そこへ、シェパードがやってきました。先ほどまでバス停のベンチにいたシェパードです。突然の来客に、ケイたちは狼狽します。
「おや、なにかと思えば」
 シェパードの口調はわざとらしいものでした。軽薄に肩を上下して、恐怖心を抱くことなく近づいています。
「おやおや。これは舞さんではないですか」
 近づいて、四人を見下ろします。そのうちのひとりに注目して、また軽薄に笑います。
「なにがおかしい」
 兄が叫びました。それは耳に届かなかったのか、シェパードは今度は、ペアルックの男ふたりに視線を向けます。金髪の男が、嫌そうに睨み返しました。ケイも目を細めます。
 しかし数秒見詰め合っていると、ふいにケイは起き上がりました。そして、「帰るぞ」と一言。
 金髪の男は、残念そうな顔をして、それでも比較的あっさりと立ち上がりました。他の男たちは唖然とした顔をします。シェパードに一瞥をくれて、ぐちぐち言いながらふたりについていきました。あっという間に、集団の男たちは見えなくなっていました。
「最期の願いでもあれば、聞いてさしあげますよ。ってあれ、意識はないようですね。これじゃあ話せない」
 シェパードはほぼ独り言のように、舞の体にそう話しかけます。矢は未だ刺さったままです。皮膚は抉れたまま。出血は弱くなってきてはいますが、それでもまだとまっていません。しかしまだ、息絶えてはいません。能力者もちまえの体力が、心臓が欠けたくらいでは死なせてくれないのでしょう。
 兄が、自分の頭を押さえながら起き上がります。起き上がる際、帽子が落ちました。それを拾うこともせず、兄はシェパードを睨みつけます。
「おい、あんた」
 兄は言いました。ふつふつと湧き上がってくる疑問よりもまず、なによりも大切な、刻一刻を大事とすることを喋ります。
「さっさと、舞の傷を俺に移せ」
 胸倉を掴んで。
 その真剣な顔に、シェパードはつい笑ってしまいました。胸倉を掴む手に、より一層力が入ります。
「移すというのですか。あなたに、この致死的な傷を」
「そうだ。俺に移すんだ」
 太陽はそろそろ傾くつもりのようです。沈む前に赤くなるのは、いったいなんの照れ隠しなのでしょう。
 生きている人間は、シェパードと兄と、かろうじて舞しかいません。赤く染まった空間は、濃い陰をもって染み渡っていきます。
「あなたは、わたしに傷を負わせようというのですか。言ったはずです。人から人へ移すためには、まず自分が仲立ちにならなくてはならない。この痛みを、まず舞さんから引き受けるのは、わたしになってしまうのですよ」
「だが、あんたは言ったよな。ほぼゼロの時間で移せると」
「それじゃあ伺いますが、それは本心なのですか? おかしいでしょう。普通に考えてみて。あなたの目的は、舞さんを助けることです。決して、自分が傷を引き受けることではない。そうでしょう? ならばわたくしに移して、ただそれだけにすればいい。そこからまたあなたに移す理由は、少なくともあなた個人にはないはず」
 兄は無言で、またシェパードを睨みつけました。おちおちしてはいられないというのに、瞳を数秒かけて覗き込みます。
「いいから、早く」
 口元を歪めました。そうしながら、兄は頭を抱えます。眉も歪めていました。頭痛がさらにひどくなったのです。
「大丈夫ですよ。きっと舞さんなら、そう簡単にはくたばらない。まだこの前の裁判の時間くらいの余裕はあるんじゃないですかね。ああ、いえ、そんな怖い顔をなさらずに」
 シェパードは舞の体を覗き込むような形で、赤らんだ地面にしゃがみこみました。兄もそれに倣います。丸まった影がふたつできました。
 シェパードが、舞の体に触れました。そして片方の手で、兄の頭を掴みます。兄の頭には本人の手が載せられていて、シェパードはその手に手を添えた形になります。触れれば能力を移動できる、その能力を行使するつもりなのです。
「しかしあなたは、少し自分を卑下しすぎな感があります。あなたは確かに、舞さんにとっては足手まといだ。ですがそれ以前にまた、あなたはこの子の兄上でもあるのです。ヤコブなのかなんなのか、わたくしは知りませんがね」
「俺はただのヤコブじゃない。クロイツフェルト・ヤコブ病だ」
 兄はそう言って笑いました。心なし、気付かれていたことに驚いているようです。シェパードは仮面の下で笑いました。
「ならばあなたは、文字通りヤコブに出し抜かれたのですね」
 傷が流れました。


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