●PG12

 この作品は流血などの残酷描写や、倫理に反する表現、意図的な誤謬表現などを含んでいます。


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 それは一瞬のことであるはずなのに、兄は人生よりも長いような錯覚に捕らわれました。脳の動きが、とうとう鈍くなっているのかもしれません。病は確かに進行の早いものですが、いくばくか早すぎる節があります。それはいってしまえば、兄の心理状態が関係しているのでした。どうせ助からない、どうせ自分は邪魔者でしかないといった負の感情が、脳内の時間を早め、異常を増殖させたものと考えられます。
 クロイツフェルト・ヤコブ病。ヨットから降りてから、すっかり兄はそれに冒されていました。この病は、いわば新幹線に乗ったアルツハイマー病です。その進行はとても早く、潜伏期間を無視すれば平均して一、二年程度で発症者は命を落とすといいます。プリオンという蛋白質が、脳内に異常に蓄積することで発症します。その異常プリオンが、脳組織に穴をあけてスカスカにしてしまうのです。
 ヨットで人肉を食したことが原因でした。誰も気付きやしませんでしたが、そもそも気付く由などなかったわけですが、ヨットで絶命した男には、異常プリオンが含まれていたようです。あのとき人肉を食べなければ餓死していたでしょうが、食べてもまた、脳を冒される結果が待っていたのでした。
 先ほど申したとおり、この病は非常は進行が早いものです。しかし、一週間でどうのこうのなるものではありません。これはひとえに、兄の思い込みの激しさが関連しているのでした。食べ残しの遺体から異常プリオンが検出されたというストレスが、彼に頭痛をもたらしたのです。
 そしてこの病は、感染力が強いのです。兄は考えました。悩みました。無駄に持ち合わせた知識が、彼に犠牲を授けたのです。もし妹が感染してしまったら。足手まといどころの話ではなくなります。それがまた、彼に頭痛を預ける要因となるのでした。
 兄はヤコブに出し抜かれたのです。
 彼は結局、自害する他の方法を思いつきませんでした。妹に病をうつさないためには、自分が深刻な状態になる前に死んでしまえばいい。兄はそう考え、そして今回をちょうどいい機会に仕立て上げたのです。妹の傷を癒しつつ、自分の病を処理することができる。それによって失うものは、役に立たないただの足手まといだけです。兄にとって、それを選択するのは当然のことでした。
 その時間は、一向に終わるきざしを見せませんでした。死の直前というものが、こんなにも長いものだったというのを、兄は今になって初めて知りました。もちろん誰もが、生きている間は知らないことなのでしょう。人生のこれまでが、一気に甦ってきます。それは濃縮されているというよりも、一連のただの固体のようでした。固体がひとつ通り過ぎ、その瞬間には人生のすべてが巡りまわっていたのです。
 ――わたしは、グッド・シェパードを目指していますから。
 ヨットの上での、舞とシェパードの会話。兄はそれを、ふいに思い出すことができました。
 シェパード、つまり、羊飼い。グッド・シェパード。良き羊飼い。
 クロイツフェルト・ヤコブ病は、もともとは羊などの家畜の病気だったそうです。それが人間に広まり、こうして人の主流な感染病となりえたそうです。
 その羊飼いは、果たして最初、どう思ったのでしょうか。グッド・シェパードのように、打算しない無償の愛で、その羊を介抱してやったのでしょうか。最後に死んでしまっても、我が血肉として取り入れたのでしょうか。そして病にかかったのでしょうか。
 もしもシェパードが良き羊飼いになりえていたのなら。しかし兄は、それを考えることはしませんでした。兄は薄々ではあっても、シェパードがまったくただの羊飼いであることを知っていました。彼は打算します。
 いくら永くても、それは天国でも地獄でもありません。兄の最期の瞬間も、ついに終わりとなりました。最後に浮かんだ光景がなんなのか、兄にも分かりません。小さいころの舞だったのかもしれないし、舞を掲げる両親だったのかも。それとも案外、鏡に映る自分の姿だったのかもしれません。
 死の瞬間というものは、決して闇の中で執り行われるものではありませんでした。ところどころに光が入り浸り、闇と空間を共有していたのでした。青くなった服の感覚も、頬を撫でる髪のクセも分からずに。死とはつまり、「無」なのでした。兄はそう感じます。死に足を踏み入れてもなお、思考します。「無」となっても思考だけ残っているのはまるで、「夢」を見ているような気分です。いえ、「無」を下に「夢」が覆いかぶさっているといったほうが、イメージが合っているでしょうか。どちらも音読みでは「む」ですから、一括して「ム」といってもよさそうです。兄はそう思考して、笑おうとしました。ところがどうやら、笑うための顔がありません。シェパードは仮面でも笑ってみせたのに、兄にはどうやら、できないようです。
 ――太陽は沈みきっていました。あたりはいつの間にやら暗くなっています。
 舞が、ゆっくりと瞼を持ち上げました。暗闇なのに眩しそうに目をすぼめます。
 まず舞は、自分の体をまさぐりました。どこにも損傷はありません。怪我をしたような覚えがあったのですが、夢だったのでしょうか。ところが胸は血で薄汚れていて、傍には先の曲がった矢が横たわっていました。血のにおいも健在です。むしろ普段舞が嗅いでいる血のにおいよりも、それは鼻をつくものでした。死後数時間放置していて、その場に居合わせたのなら、きっとこんなにおいがするのでしょう。
 上半身を起こします。向こうに、がたいのいい男のシルエットが見えました。月光へ向かって、のんびりと歩き去っていきます。個性的な服装をしているのが、暗闇の中でもよく分かりました。それはポン・シェパードの背中でした。
 舞は彼を呼びとめようとも思いましたが、それよりもまず、現在の夢心地に対応すべきだと判断しました。
(なにがあったんだっけ)
 悠長にぼやくのも、傍の遺体を見つけるまで。
「兄、貴?」
 眠気は一気に醒めてしまいました。眠る前の記憶が、一気に目を覚ましていきます。そしてたくさんの疑問と、怒りと。
「兄貴!」
 月が静かに輝いています。その光は世界中で舞だけを照らしているように思えました。月に促されるまま、舞は数時間もじっとしました。
 そうして舞は確信しました。シェパードが自分の兄を殺めたのだと。
 ぞくぞくと湧き上がってくるのは、シェパードに対する憎悪の念でした。復讐の気持ちでした。空気が歪んでいきました。すっかり圧力を操るのが下手になっていました。
 舞は立ち上がりました。シェパードを追いかけようと考えました。
 道の隅っこで、舞はすっかり顔も忘れている男が蹲っていました。心臓はもう機能していません。
 舞はそんなこと気にすることなく、ただ月に向かって歩きます。
 月が舞の殺意を、おかしそうに笑っていました。


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