●PG12

 この作品は流血などの残酷描写や、倫理に反する表現、意図的な誤謬表現などを含んでいます。


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第3章



 太陽が昇っていることや、少年たちの幼い歓声が伝うことは、舞の世界とはまったく因果がありません。舞が公園にやってきたのは、意思をもってしたことではありません。気付いたらここにいたのです。
 兄の遺体は、置いてきたようです。今頃騒ぎになっていることでしょう。ですがそんな騒音は、舞の耳に届けません。
 公園のベンチに腰掛けています。ちゃんと意思は持っているようです。ただ意図的に、まわりの感覚を遮断しています。太陽の光は舞の背中に降りかかっていますが、それを暑いとは思いません。
 もうどれだけ、そこにいたのでしょうか。
 公園は、事件のあった場所とショッピングモールの中間のあたりに位置しています。昨晩舞は、考えることをやめてここまでやってきて、ずっとベンチに座っていたのです。
 舞のまわりだけ、空気がねじれているように見えました。歪曲して、屈折して。太陽の光は確かに舞に当たっていましたが、そのほとんどが、ベンチ脇に逸れているみたいです。空気の歪曲にのせられて、まるで拒絶されているような。
 少年の声がしました。それは舞の耳に届く前に、曲げられてしまいます。しかし舞は、足元に転がってきたサッカーボールに気付くことができました。黒と白だけのデザイン。黒と白に、隔たりができています。
 少年は近寄ってこずに、舞の様子を窺います。取って、こちらにまで投げてほしいということなのでしょう。舞はそれを拾い上げました。圧力に負けて潰れました。
 少年がなにか、ぶうぶうと文句を言っています。しかしそこへ、少年の母親らしき人が駆け寄ってきました。舞の顔を盗み見ながら、怖そうな顔で少年をつれて、公園を出ていきます。少年はまだ、サッカーボールが壊れたことの不平を募らせているようですが、母親はそれに耳を貸しません。ただ舞から離れようと努めていました。
 もはや布になったサッカーボールを、舞は静かに眺めます。手元のそれは、今度は黒と白が融合しているように見えました。しかし圧倒的に、白の割合のほうが大きいようです。ボールの表面では均衡が保たれていたようですが、内側は白一色だったのです。舞が冷たい目をします。
 公園の横に道路が延びています。舞から見て左側がショッピングモール、右側が病院やバス停に続いています。舞はなにも考えずに、ただそこの通行人を数えていました。
 シェパードはまだ、通りません。
 彼に対する憎悪は、いつの間にか消え去っていました。本当に消えているわけではないのでしょうが、他のものが、それを覆い被さってしまいました。人を殺めたいと思ったのは、舞にとって初めてのことでした。いままでは、依頼主が殺めたいと思ったから、舞はその人を殺めていたのです。それが金もなしに、湧き上がってくるなんて。結局それは舞にとって些細なことで、簡単に覆われてしまいます。
 人が通り過ぎていきます。先ほどの親子が公園を出て行ってから、公園にいるのは舞ひとりだけでした。他の遊んでいた少年も、舞の姿を見て逃げるように出ていきました。
 なにせ舞の服は、弓矢のせいで布切れで、血液のせいで異臭がしました。舞の体にはどこにも怪我などないのに、すっかり黒ずんでいます。
 バスが通り過ぎます。病院前のバス停から来たのでしょう。どこへ向かうのか舞は知りませんでしたが、それを目だけで追いかけました。次第に見えなくなって、そのころにはバスへの興味を失っています。
 太陽はすっかり高い位置にいました。舞の黒い頭に攻撃します。舞はそれに抵抗する素振りを見せません。けれども陽光はまるで萎縮しているようでした。ベンチの背もたれが、少々曲がります。
 少しずつ、ベンチのまわりの砂が遠ざかっていきました。流体に動かされているのでしょう。それはほんの些細な動きでしたが、カタツムリのように、着実に。舞は孤独になっていきます。自身の圧力が異常なせいで。
 舞はなにも考えません。しかし自我を失くしているわけではありません。意図的に、自分を包み込んでいるようでした。なにも見えないのではなく、なにも見ない。
 先ほどから警察関係の車両がたびたび走っているのも、警察官がせわしそうに駆けているのも、舞はきっと見ないのです。野次馬が病院側へ歩いていきます。数人が公園のベンチを一瞥して、見なかったように取り繕って、警察の車を追いかけました。中にはカメラを持った人もいます。ですが舞は、それらを見ようとしません。ただ通行人の数を数えているだけです。
 空気が舞の胸を撫でます。背中を貫きます。クセのある髪と絡みます。腕を舐めます。足に摺り寄せます。舞はなにもしません。
「あう」
 恥というものを知らないのでしょうか。その声は、妙にはっきりと舞の耳に届きました。しかと外耳道を通り、鼓膜を震わせ、耳小骨から蝸牛に伝わります。舞はそれを拒みませんでした。それが、知っている声だったから。
 少女は、どうやらまた果物をこぼしたようです。野次馬とぶつかったのでしょう。家が連中の目的地と同じ方向にあるのでしょうか。迷うことなく蜜柑が転がっていきます。そのうちのひとつが、野次馬の足に潰されました。
「あう」
 またそう言います。どうやらその声は、蜜柑を悼むもののようです。少女は他の果物を救出すべく、一旦紙袋を地面に置きます。それから野次馬のかたまりに走っていきます。
「こらー! わたしの蜜柑ー!」
 そう襲い掛かります。小柄な体は、野次馬をゾウと喩えるのなら、リスのようです。少々誇大ではありますが、蜜柑を踏み潰した人間は、足の感触に気付いたのか、少女にあっけなく謝ります。それだけ言って、事件現場へと走っていきます。弁償するつもりはないようです。
「この踏み逃げヤローウ!」
 少女は叫びましたが、それ以上追いかけることはしないようです。それよりもまず、散らばった果物を紙袋に返してやります。手際のいいおまわりさんみたいです。
 とりあえず、舞はベンチから立ち上がりました。見たことのある人が視界に入ったというだけで、なんとなく安心した気持ちになったのかもしれません。舞は立ち上がって、だけど、近づくことなく佇みます。
 紙袋はまるで飽和状態です。先ほどの蜜柑が潰れていなかったとしたら、この紙袋におさまらなかったのではないでしょうか。おそらく会計時に店員が紙袋に納入したのでしょうが、凡人にはとうていできない所業です。
 少女は紙袋を抱えて、立ち上がりました。上のほうにのっていた果物が、またころころと落ちてしまいます。
「あう」
 なん度目でしょうか。少女はやはり、恥というものを教わらずに育ったようです。なぜ大音量でそんなことを口に出せるのでしょう。舞は少女の様子を見ながら、少しだけ愉快な気分になっている自分に気付きます。そして自分が嫌になりました。
 少女はめげずに、地面の果物を拾おうと手を伸ばします。左手首のリストバンドが覗きました。しかし拾う際、当然体が傾きます。少女は紙袋を抱えたままだったので、滑稽なふうにまた流れ出てきました。
「あう!」
 少女は大きな動作で眉をしかめます。口もすぼめて、それでも諦めることはありません。また紙袋を地面に置いて、まわりの果物を拾いなおします。
 舞は自己嫌悪からひとまず脱して、それを手伝ってやることにしました。昨日ショッピングモールで出会ったときを思い起こして、彼女はきっとひとりではなにもできないことを思い出したのです。店員と舞にすべて任せきりにしていたのですから。
 舞が道路に近づきます。
 少女と目が合いました。


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