●PG12

 この作品は流血などの残酷描写や、倫理に反する表現、意図的な誤謬表現などを含んでいます。


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 シャワーの温水が、舞の体を愛でました。舞はそれを久々だと感じ取りました。実際には、ヨットから救出されてからほぼ毎日入浴していましたが、服の支給がなかったので、舞にとってこのシャワーは久しいものでした。
 舞の身に付着した血液や汚濁が、排水溝に流れていきます。完全に流れきると、舞は満足気な表情を作りました。
「済んだー?」
 シャワーカーテンの向こうから、少女の声が響きます。水の跳ねる音がやんだから、声をかけてきたのでしょう。舞は「うん」と返しました。水滴をつけた髪を指ですくいます。
 勢いよくカーテンが開かれました。突然のことに舞は表情を引きつらせます。開いた向こうには、大きなバスタオルが視界を覆っていました。それがそのまま、舞の体を包み込んでいきます。
「うへへー、気持ちいいでしょー」
 タオルは粗くふかふかです。繊維が体をくすぐりました。舞は身をよじらせて、少女からタオルの主導権を奪います。髪の毛から滴が落ちました。
「うちの特製の洗剤を使ってるんだよ!」
 少女はそう満面の笑みを向けます。頬はタオルよりやわらかいに違いありません。
「どうやって作るのか訊いてよ!」
「……どうやって作るの?」
「近所のスーパーで買うんだよ!」
 少女の家は、公園のすぐ近くでした。舞はこぼれた果物を持って、少女に促されて家についていきました。裕福そうな一軒家です。「椋木」という表札が取り付けられています。
「クラキさん?」
 舞は表札を見て、少女にそう訊きます。その二文字には、ふりがながふられていません。
「あー違う違う。それ、わたしの苗字じゃないよ。わたし、ただの居候だから」
 ちなみにそれ、ムクノキね。少女はそうつけ加えます。
 シャワーを終えて、舞はリビングのソファに腰掛けていました。体の表面はまだ湿っています。服は少女が貸してくれました。少しサイズが合いませんが、文句を言うわけにはいきません。「きゃー、似合う似合うー」などと言われてしまったのですから、尚更です。
 少女が、冷蔵庫からアイスクリームをふたつ取り出しました。それを持ってソファまでやってきます。深く腰を下ろしてから、うちひとつを舞に差し出しました。
(居候なんだよね)
 少女の自由気ままな行動に、舞は苦笑します。そうしながらもアイスを受け取りました。アイスが潰れることはありませんでした。舞の口の温度で、ゆっくりと溶けていきます。甘ったるい味が広がりました。
 リビングは広い様式です。観葉植物がシックに置かれています。ソファの背のほうに大きな窓があります。庭に続いている窓です。窓の両端には、これまたお洒落なカーテンが結わえられています。窓の反対側には大型のテレビがあります。テレビは斜めを向いていて、ちょうどその先がキッチンでした。少女がアイスクリームを持ってきた場所です。キッチンには電気式らしいコンロが置かれています。その真向かいに冷蔵庫。冷蔵庫は三段になっていて、少女がアイスを取り出したのは二段目です。天井には蛍光灯が設けられています。光が隅々まで照らします。隅っこに廊下へ続く扉があり、それと窓の間に、他の部屋へ続く扉がもうひとつ。
「椋木さんは?」
 舞はふと、疑問を口にしました。それと同時に、玄関の開く音。
 夕食が食卓に並びます。舞はつい、口を開けて感嘆しました。
 食卓を三人で囲みます。椋木さんは、中年の女性でした。食卓といっても、座っているのはソファですが。キッチンの隅に隠されていたらしい折り畳み式の机が、ソファの前に置かれています。
「美味しい?」
 少女はそう訊きました。舞は迷わず頷きます。「美味しい」と返事としようとしましたが、口の中にものが入っていて言葉になりません。ただただ頷きます。
「えへへー。そうー?」
 なぜか少女が照れました。夕食を作ったのは彼女ではなくて椋木さんです。椋木さんが楽しそうにそれを言及しました。
 その晩は、舞は椋木宅に寝泊りすることになりました。舞は嘘をついたのです。兄は借金を返すために休む暇なく働きづめで、家賃も滞納してしまっていて追い出されたのだと。それでも兄は舞を養う余裕がないし、舞には寝場所がないと。それで公園で呆けていたら、少女が果物をこぼしている場面に遭遇したと。
 能力者であることも伏せました。
 舞の話を聞いて、ふたりは快く宿泊の許可を出してくれました。少女はむしろ家につれた時点で泊まらせる気だったようです。椋木さんも、居候が増えたなどと笑っていて、負担ではないようです。
 布団に身を潜らせます。少女の部屋で、一緒に寝ることになりました。少女の部屋は、二階にあります。階段は玄関から入ってすぐのところにありました。質素な階段は、悲鳴を上げることもせず頼もしいものです。少女の部屋には、あまり私物は多くなく、目の遣りどころに迷うことはありませんでした。やはり居候というべきか、私物を溜め込むのは控えているようです。
 布団をふたりぶん敷いています。部屋はわりかし広いので、窮屈ではありません。それなのに少女は、ずいぶん舞に密着しているように感じました。夕食後にもう一度入浴したので、少女の体はほのかに湿っています。髪の毛だけは念入りに乾かされていて、端麗な瑞々しさだけを保っています。左手首のリストバンドは、風呂から上がるとまたつけていました。
「舞のお兄ちゃんは、今どこにいるの?」
 昼間の溌剌とした声と違って、その声は優しげです。包み込んでくるような声、舞もつい、静かな声で返しました。
「えっと、海外」
 目を泳がせないように意識しながら。
「そうなんだ。会えるかなって思ったけど、それじゃあ無理だね」
「うん。無理」
 もう切るよ、そう言って少女が部屋の灯りを消しました。あたりが暗くなってからも舞は、涙を流すまいとりきんでいます。
「あなたには、家族はいないの?」
 舞は訊き返します。
「あなたって。静奈でいいよ」
 やっと彼女は名乗りました。名乗ることを今まですっかり忘れていたようです。
「奈落のように静かにしとけって意味なんだって」
「こ、怖い名前」
 静奈はそれから、先ほどの質問に答えます。
「家族っていっても、椋木おばさんも家族だよ。椋木おばさんは、わたしの母親の妹なんだ。わたしが今の大学に通い始めてから、この家に居候している。居候といっても、ちゃんと家賃は払ってるんだけどね」
「え?」
 暗闇は、慣れてしまえば暗闇ではありませんでした。それでも見えにくいことは確かです。静奈の瞳は魚のように泳いでいましたが、舞はそれに気付くことはありません。というよりも、それは静奈のほうも同じで、静奈には舞の驚いた顔が見えていません。
「大学生?」
「え? もしかして高校生だと思った?」
 急激に大人びて聞こえる声が、舞の聴神経を惑わします。舞はついでに、平衡感覚が乱れたような感覚に陥りました。おそらく耳に異常が現れたのです。
「私、一七歳だけど」
「じゃあ、わたしがお姉ちゃんだね!」
 どう考えてもそう思えません。舞は目を瞑りながら、静奈が講義を受けている情景を思い浮かべるのでした。思い浮かびませんでした。


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