●PG12

 この作品は流血などの残酷描写や、倫理に反する表現、意図的な誤謬表現などを含んでいます。


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 舞が布団から脱したときには、既に静奈は横にいませんでした。静奈の布団は綺麗に畳まれています。元のところにおさめられています。
 寝ている間、夢を見ることはありませんでした。
 舞は数分間、布団の中で下半身を伸ばしていました。それからのそりと体を起こして、布団を畳みにかかります。それは慣れない行為で、あまり綺麗に整えることはできませんでした。それを静奈の布団の上に重ねます。
 階下におりて、リビングの扉を開けました。静奈も椋木さんもいません。昨日は気付きませんでしたが、壁に時計がかかっています。それによると、午前の十時です。ふたりとも、学校や職場に行ったのでしょう。
 舞は少し立ち往生して、ソファに腰掛けました。そこにそのまま置きっぱなしにされていたリモコンをとって、おどおどスイッチを押します。
 バラエティ番組が放送されていました。芸能人が楽しそうな表情を繕って会話をしています。舞はそれをぼうっと眺めて、気付いたら正午の報せがテレビ画面に映っていました。
 舞は出かけようと考えましたが、この家の鍵を持っていないことに気付きました。鍵をかけないまま外出して、泥棒でも入ったら大変です。出るに出られません。舞はソファにより深く腰をうずめて、テレビ画面をつまらなそうに眺めます。
『能力者の囚人、脱走していたことが発覚!』
 画面上にそんなテロップが流れました。ニュースキャスターが、感情を込めているのか込めているのかよく分からない口調で、その事件を報道していきます。舞はそれを観聴きして、大きく溜息をつきました。まわりに誰もいないから、動きが大袈裟になっているのでしょう。
 能力者はまれに、ただ能力者であるというだけで犯罪者扱いされます。舞はニュースで知らされた者に同情しているのではなく、能力者を悪人だとそしる世間に呆れているのです。世間は単純です。ニュースキャスターが一言、自分の見解を述べれば、それを世間の意見だと信じ勝手についてくるのです。だから舞は、静奈たちに自分の正体を隠さないといけないのです。能力を発揮してしまわないように気を遣わないといけないのです。
(私も、こんな世界から脱出してしまおうか)
 それだけ思っても、術が思いつくことはありません。舞はリモコンを手にとって、テレビの電源を切りました。リビングに静寂が訪れます。それはだけれど、奈落ほど静かには思えませんでした。
 舞は、リビングの蛍光灯がついていなかったことに気付きました。今まで電灯を使っていなかったのです。南に見える太陽が、大きな窓から差しています。この家では、昼間に電気は無用のようです。
 窓を開けて、庭に足を踏み入れました。特別凝った装用はなされていません。ボウズ頭のような芝生があって、隅にひとつだけ、小ぶりの木が佇んでいます。木には、薄赤色の、小さな丸い実がいくつも生っています。木と少し離れたところに洗濯竿があります。今は洗濯物はないようです。それとも洗濯機が、舞から見えないところで稼動しているのかもしれません。
 日が体を撫でます。舞は目を閉じて、太陽の光を全身で感じ取りました。自然と両手を広げます。その姿勢はまるで向日葵のようです。目を瞑っていても、あたたかい熱が瞼を通ってきていました。それは眼球をくすぐり、そこから全身へ染み渡っていきます。体があたたまるのを感じます。適度に熱が広がっていきます。
 ふと、扉の開く音がしました。舞の明るい暗闇が、ノックなしに開かれます。泥棒でしょうか。と思うまでもなく。
「あ、おはよー」
 太陽と似た感覚。撫でるような声が、舞の背中を触ります。
「よいしょっと」
 振り返ると、静奈がキッチンに紙袋を置いているところでした。紙袋から、また蜜柑がこぼれます。こぼれて床を転がって。舞は庭から戻って、それを拾い上げました。蜜柑を持ってキッチンに歩み寄ります。
「果物、よく買い。買うね」
 一瞬だけ、「買いますね」と言うべきなのか迷いました。昨晩、静奈が自分よりも年上であることが判明したからです。しかし容姿と性格を眺めて、どうしても年上扱いはできそうもありません。それに年上だからといってそれだけで敬う法もありません。舞はこれまでどおり、敬語を使うことなく話すことに決めました。
「フルーツは体にいいんだよ」
 静奈が笑います。紙袋から果物を出します。種類によっては冷蔵庫の最下段に入れ、種類によってそのままキッチンに並べます。
「林檎がない」
 舞はそう呟きました。そういえば以前ショッピングモールで出会ったときも、林檎は購入していなかったように思います。
「あれ? 舞って林檎好きなの?」
 なぜか意外そうな口ぶりで、静奈はそう言いました。舞は目を逸らさずに頷きます。
「へー。そうなんだ」
「林檎は、好きじゃない?」
 今度は舞が訊きます。
「うーん。林檎を食べたらね、おうちから追い出されちゃうんだよ」
「え?」
「ただの比喩だよ! そんな怖い顔しないでよぅ」
 静奈は慌てて取り繕います。
「それは、どういう比喩?」
 舞が疑問をぶつけます。静奈は困ったような照れたような顔をして、蜜柑をひとつ持ち上げました。それを舞に差し出します。
「昔からわたしはね、母親に言い聞かされてきたんだ。善悪に惑わされちゃだめだって。林檎を食べて手に入れた善悪の知識は、神様にとっての善悪でしかないって。神様に惑わされちゃだめだって。悪魔に惑わされちゃだめなのと同じくらい、神様に惑わされてもだめだって」
 ひねくれてるけどね。そう言いくくって、静奈は蜜柑の皮を剥き始めました。舞は数秒だけ難しい顔をしていましたが、静奈の真似をして、先ほど受け取った蜜柑の皮を剥き始めました。
「ちょっと来て」
 蜜柑を食べ終えてから、静奈が舞に言いました。舞の返事を待つことなく、舞の手を引きます。そのまま迷うことのない足取りで、舞は庭につれられました。
(ここへはさっき来たのだけど)
 そう思っても、舞は口に出しません。静奈が帰ってきたちょうどそのとき、舞は庭にいたはずです。大きな紙袋が邪魔で、気付かなかったのでしょうか。
「ほら、これ」
 庭を数歩進んで、静奈は足をとめました。前方のものを指さします。
 それは木でした。先ほど舞が見たとおりの、小さな実を携えた木です。
「これ、なんの木だと思う?」
 静奈が問題を出しました。声は溌剌としています。いつもの声です。
 舞は少しだけ考える素振りをしてから、分からないと答えました。それを聞いても静奈は残念そうな顔ひとつせず、すぐさま正答を口に出します。
「姫林檎だよ」


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