●PG12

 この作品は流血などの残酷描写や、倫理に反する表現、意図的な誤謬表現などを含んでいます。


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 兄が立っていました。真っ白な空間の中で、ぽつんと。舞は暗闇の中にいて、こちらから向こうは窺えますが、向こうからこちらは見えないようです。
(兄貴、兄貴!)
 喉が張り裂けんばかりに兄を呼びかけました。しかし兄に声は届きません。それどころか、舞の耳にも届いていません。そもそも舞は口を動かせていませんでした。暗闇の中で、自分にも聞こえない声で叫びます。
 兄が舞に気付きました。舞の思いが、きっと兄に伝わったのでしょう。が。
 兄は舞の顔を見つけたかと思うと、目を鋭く細めました。口はかたく閉ざしています。両手は黒服の下に隠しています。なぜ隠しているんだろう。舞がそう思った途端、兄が片手を引き出しました。
(お前のせいだ)
 拳銃から噴射された言葉が、舞の胸を貫きました。抉れて、ひしゃげて。舞は喉を詰まらせて、後ろへ反り返ります。わけもわからぬまま、兄の姿を見つめました。兄はもう舞に興味を失ったように、背を向けています。もっと明るいところへと、こつこつと歩いていきます。しかし足音は聞こえませんでした。
 舞は、幼少の体に戻っていました。床を這って進みます。どうやら、部屋の隅に転がっていった玩具へ向かっているようでした。赤くて丸い、鞠のような玩具です。
 そこへ、父親がやってきました。舞は玩具へ向けて旅をしている最中だというのに、父親は舞を抱き上げます。高い高ぁい。いつまで経っても子どもが可愛くて仕方ないのでしょう。満面の笑みで舞の小さな体を抱えます。
 舞はふくれっつらをしていました。早くあの赤い丸で遊びたいのに。自分を包む父親の腕が、邪魔臭く感じられました。これを突き破れたらいいのに。そう思っていると体が火照ってきました。
 舞の泣き声を聞きつけて、母親が駆けてきました。声にならない悲鳴を上げます。父親の無惨な様子から目を逸らします。母親は、強盗かなにかが父親を殺めたとでも思ったのでしょう。舞は父親の腕から抜けて、床に体を打っていました。それがつらくて泣いていたのです。母親は居もしない強盗を警戒しながら、可愛い我が子を守るように抱きしめました。そして心臓が破裂しました。
 今度は母親の体がクッションになって、体を打つことはありませんでした。それでも舞は泣きやみません。高い圧力によって、赤い玩具はさらに遠ざかっています。
 いつの間にやら、部屋の入口のあたりに兄が立っていました。当時は中学生だったはずなのに、その姿は、すっかり大人の体です。しかしその胸には、見るも無惨な傷が刻まれていました。矢のようなもので抉れた傷が。。
 そして舞を見据えて、兄は口を動かすのです。
(お前のせいだ)
 舞は目覚めました。体を咄嗟に起き上がらせます。
 体中が汗に湿っていました。額と髪が気持ち悪いくらいくっついています。クセ毛を付着させているのが、汗だけでないことに舞は気付きました。こわごわと自分の目元を触ります。汗でねばっこくなっていた指先に、涙が混ざります。
 舞はふと、横を見遣りました。自分の左手が、無意識になにかを掴んでいることに気付いたのです。夢を見ている間に、体が勝手に掴んだのでしょう。
 横で眠っている少女の腕が、メビウスの輪のようにねじれていました。
 ――病院に訪れるのは、もう幾度目になるでしょう。近くにバス停があるはずですが、この病室からは見えませんでした。バスの音も、降りる乗客の足音も届きません。
 静奈と無言で見つめ合います。意識は既に取り戻していました。右腕ががっちりと固定されています。左腕のリストバンドはつけられたままでした。静奈は不自由そうな顔を作ることも厭った様子で、舞と見詰め合っています。
 舞は蛇に睨まれた蛙のように、身動きできずにいました。静奈の視線に絡み取られて。縛り付けられて。
「ねえ」
 先に口を開いたのは、やはり蛇のほうでした。蛇睨みが利いているのか、声をかけられても舞は首を動かしません。ただ静奈の視線に射抜かれているだけです。それでも静奈は、きつい口調で続けます。
「なんで黙ってたの?」
 その不可解な質疑に、舞はほんの少しだけ視線をずらしました。その質問は、まるで答えを必要としません。
 静奈自身も、その不可思議さに気付いたようで、「黙るのは当たり前か」と呟きます。
「この腕、切断は免れたけど……もう動かせやしないって。筋肉が働かないって」
 責める口調を、舞はどうすることもできません。飲み込まれる瞬間を、逃げることもせずひたすら待っています。
「能力者。なぜ、舞は能力者なの?」
 そんなこと訊かれても、むしろその答えを聞きたいのは舞のほうです。舞は自らの唇を噛みました。だけれど痛いほどの力を加える勇気はなく、ただの甘噛みになってしまいます。
「能力者なんて、大っ嫌い。人間じゃないくせに人間ぶって」
 途端、舞が啖呵を切りました。静奈の言葉を遮って、自分は人間だと言い放ちます。もう乾いたはずの頬が、また濡れてきました。顎を伝って、服に染みて。
「ねえ」
 涙声。静奈は涙を流さずに泣いていました。右腕は器具に矯正されていて、微動だにできません。そこだけは蛙のようです。それでも蛇は食欲を失って、ただ喉を震わせています。もとからなかった蛇足を失い、哀れんでいる蛇みたいに。
「出てってよ」
 静奈が絞り出した声は、そんな当たり前のことでした。
 病室の窓は、バス停のほうを向いていません。他の方向を見ています。バス停の代わりにこの窓から見えるのは、舞が前日いた公園でした。少年たちがボール遊びに励み、もう少し幼めの子たちは砂場で山を作っています。稚気の音がいまにも聞こえてきそうです。不審者が先日いたことが主婦の間に広まったのか、公園に同伴している親が多いように思えました。
 スライド式の扉の向こう側で、舞は壁に背中を預けます。涙はいくら流れても、堰くことを知りません。兄がいなくなってから、きっと狂ってしまったのでしょう。防波堤は死んでしまったのです。
「ちょいと、失敬」
 そう声をかけられました。涙ぐんでいるところに声をかけてくるだなんて、なんて失敬な人なのでしょう。舞は手の甲で拭いながらも、声の主に顔を向けます。
 間近で見てみると、がたいがよさそうなのがよく分かりました。胸板は厚そうで、肩幅は広そうです。奇妙な衣装がそれを曖昧にしていますが、きっと、そうです。
 舞は咄嗟に、両手を前に突き出し攻撃しようとしました。本能によるものなのか、理性からくるものなのか、そんなこと、舞は気にしません。しかし相手は軽やかにそれを避けて、「まあまあ、ここは病院ですよ」と舞をなだめます。
 ポン・シェパードが、仮面をつけたまま微笑みました。


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