●PG12

 この作品は流血などの残酷描写や、倫理に反する表現、意図的な誤謬表現などを含んでいます。


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ム(4)



「たとえば、君、先ほどのモニターの内容は覚えているかい?」
 男は折れずに、説明を続けます。
「ええ」
 彼女は臆面もなくそう言って頷きました。男はよし、とこれまた頷いて、話を続けます。
「ヨットに乗って海を漂流してしまう状況があったろう。あれは、オレの記憶が間違いでない限り、一九世紀にイギリスで起きた事件と酷似している」
 男は言います。
「ムは、人々を取り巻く事柄と、密接に関係している。なぜなら、まわりの環境が人の『意識』を形成するからだ。なんども言ったとおり――いや、君はもう覚えていないのかもしれないが――『無意識』は本来、『意識』に内包されている。ゆえに『意識』に変化があれば、『無意識』も変化せざるを得ないのだ。『無意識』が変わるなら、ムに変化が訪れるのも不思議ではない」
 彼女はなにも答えずに、ただ耳に神経を集中させました。男は言葉を続けます。
「先ほどのヨットの騒ぎは、語り継がれた実際の事件が人々の『無意識』に作用し、引き起こさせたに違いない。それと同じく、時代が変わるなら、そのときムも変わる。時代が変わることで、人々の『無意識』に変化が生じるからだ。大きな、変化が」
「だから、『リセット』が起こる?」
 彼女はどうやら、今回は男の話を理解できたようです。先まわりして、結論らしきものを口に出します。男はそれを聞いて、ほっとしたような表情を作りました。話が通じたのが、嬉しかったのでしょう。
「それはいったい、どんなことなの?」
 彼女は理解してもなお疑問を口にします。男も意気込んで答えます。
「昔ここに住んでいたらしい者が、それについて書き記しを置いていてくれた。『リセット』の話も、この文献を読んでしったのだが」
 男はそう言って、紙束を掲げました。空気に食われたのか黄色くなっています。
「これによると、該当する地域が、一定の時間だけ消滅するらしい。人も建物も、なにもかもとともにね」
「消滅……すると、どうなるの?」
「どうもしない」
 彼女は眉をしかめました。男も困ったように口を歪めます。
「それが分からないんだ。どんな被害が出るのか、具体的には分からない」
 男は言葉をつなげます。
「たとえば、クセ毛のある兄のほうは、仮面男の能力によって死んだ。ムで死ぬ瞬間というのは、実際に現実世界で死ぬ瞬間とほぼ同一だ。現実世界で死んだから、『無意識』が存在できなくなり、それによってムが住人に死を強いるのだろう。『無意識』がないと存在自体が矛盾になってしまうから……まあ、自然の摂理とか、運命といった類のものだろう」
 彼女は口を挟みません。男は続けます。
「だが、『リセット』の場合、特に人が死ぬわけではない。ただ時代が変わるというだけだ。……つまり、順序が逆なのだ。普通の死の場合、現実世界の人が死ぬことで、ムの人が死ぬ。だが『リセット』は、現実世界の人間がどうなっているかはどうでもよくて、まずムのほうが動く。だからおそらく、『リセット』が起きてムの人間が消滅したとしても、現実世界の人が死ぬことはないだろう。あるはずがない。もし『リセット』のたびに人間が死んでいたのなら、今頃人類は滅亡していたはずだ」
「つまり、『リセット』でムの人間は消滅するけれど、それは一時的なことで、死ぬわけではない?」
「そういうことだ。君にしては素晴らしい理解力だ」
 彼女はむっとした表情をしました。
「それなら、心配する必要はないじゃない。なにをそう、難しく考えないといけないの?」
「オレがさっきまで言ったことは、すべてこの文献の受け売りだ。『リセット』が起きても命に別状はないと、ここには書いてある。しかし」
 彼女が唾を飲み込む音が、異様に大きく聞こえました。
「『リセット』の兆候が見られたときは、速やかに他の地域へ避難すべし。……そんな旨が、書いてあるのだ。おかしいだろう? 問題ないはずなのに、避難が必要だというのは」
「なにか、もっと詳しいことは書いてないの?」
「書いていない。おそらく筆者は、この理由を明示することを放棄したのだろう。それとも、単に、文章を客観視できていなくて、その理由を書くまでもないことだと思っていたのかもしれない」
 男は天井を仰ぎました。白い天井を。
「あいつがいれば、悩む必要もなかったのだが」
 そう呟きます。
「そもそも、なぜ消滅しても死なないの?」
「さっき言わなかったかな……言わなかったのかなぁ。ムが消滅したときに消えるのは『無意識』であって、『意識』ではないからだ。つまり……。人は『意識』があれば、『無意識』をまた作り上げることができる。これが逆だったら不可能だが。……だから、『無意識』が一時的に死んでも、人は死なない。『意識』が生きているからだ。そして『意識』が『無意識』をまた生み出すことで、ムが再構築、元通りってわけだ。『リセット』の原理は、だいたいこんなふうだ」
「だったら、やっぱり避難の必要はないわ」
 彼女は直感的に、そう言い放ちました。男が、彼女の顔を見遣ります。
「きっと、他のページに書くべきところを、間違って『リセット』のページに書いてしまったのよ。そうやって原理があるんなら、絶対に死ぬわけがないじゃない」
「そうか。そうだよな」
 男は腑に落ちないようですが、自分でも分からないことであるためか、彼女の強い物言いに押されました。
 そのまま話に進展はなく、彼女は施設を出て、ムを散策しにいきます。
 彼女はやはり、男の饒舌にうんざりしていたようです。


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