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二.
 印は、それでも堂々と俺と顔を合わせた。
 もう本当に、印に気力はないのだろう。相手を騙し殺すつもりなどない。彼にとって、もう人生は失敗したも同然なのだ。
 なんだか、俺もやる気が失せてくる。こういうやつを相手にするのは、昔っから嫌いだった。神谷先輩のような、無駄な気概なんて全くない。無駄以前の問題だ。
 つまらない。
 俺は拳を固く握った。固く握ったといっても、それは物理的な固さでしかない。気概の篭るような雰囲気ではない。肩に力を入れて、拳を振り上げた。肩が痛かった。あまりこういうことはしないからな。慣れていないのだろう。そのまま曲線状に捻じ込めた。印の頬はそれを避けようとしなかった。いや、避けられなかった。
 レールに沿うように印が倒れる。頬を手で押さえて。「痛い!」と叫ぶ。薄らと涙も浮かべている。
 それを見て俺は確信する。
「お前、魔法を使わないのか? 魔法で炎でも棒でも出して反撃しろよ。ほら」
 印は蹲ったままだ。余程痛かったのか、それとも喧嘩をしたことがないのか。立ち上がらない。気力がないわけではない。なかったとしても、答えは同じだ。
「……お前、本当は魔法なんて使えないんだろ」
 この町では、脳の勝手な補足が現実を創り出す。印が言っていたのは、だいたいそういうことだろう。つまりこの町で感じるものは、そのほとんどが幻想だということだ。
 ならば魔法も幻想だ。
「端唄のために、なにかしてやりたかった。だがお前には、なんの取り得もない。喧嘩は弱い。勉強もできない。そんなお前が、無意識に求めたもの――それが魔法だ。そうなんだろ」
 印が未だに頬をさすりながら、俺の顔を見遣った。涙が溜まっている。
「いや……それとも、お前も俺に言われるまで気付いていなかったのかもしれない。俺が自分が死んでいることに気付かなかったのと同じように」
 部屋の空気は歪んでいる。これでいい。このぐらいの不安定さでいい。
「なんで?」
 印の代弁でも務めて、美鬨が俺にそう訊いた。
「根拠としてはな……美鬨はその場にいなかったから分からないかもしれないが、端唄の過去話についてだ。端唄はバス停で自分が生きているときのことを話した。修学旅行の帰りのバスで、俺たち端唄の同級生は事故に遭ったそうだ。……だがその前に、もうひとつ事故が起きていた」
 印も美鬨も、なにも言わずに俺の顔を見る。話を続けろということでいいのだろう。
「二人の人間が死んだ。一人は塗りつぶしたような瞳が特徴的な少女。もう一人は、巨漢だったそうだ。これは倉木蘭と二宮寛治の特徴に当てはまる――。偶然ってわけじゃあないだろう。この二人も、死後この町に来ていたってことだ」
 俺は話を続ける。
「二人は美鬨――オウギが、人形として破壊した。だがおかしいだろう。二人は妖精に襲われたわけじゃない。単なる交通事故で死んだんだ。その二人が、どうして人形になる。心を失うことなどないのに。妖精に襲われる前に死んだのに」
 二人はなにも話さない。いや、印の口はなにも喋っていないが、目が煌々と揺らめいていた。今にも飛び掛ってきそうで、そうではなく。
「つまり、人形と妖精って、なんの関係もなかったんじゃないのか? いや、もっと推論して言えば、実際は妖精なんて存在してなかったんじゃないのか?」
 そもそも誰も、妖精の姿を見てはいない。
 心を失って事故に遭って死んだだけだ――心を失ったというのも本当かどうか怪しいものだ。
「妖精ではなく、単なる現象のひとつだったんじゃないのか?」
 一帯の人間全てが眠りついてしまう現象。それがなんなのかは分からない。タイヤの回転速度やその振動数が潜在意識に語りかけたのかもしれない。催眠効果のある物質で霧でもはったのかもしれない。それがなんなのかは、今となっては絶対に分からないことだ。妖精の仕業という根拠もない。
 妖精とか神とか、名前は広く知れわたっていて、それっぽい事例も多く報告されていて、それでいて周りのやつはみんな見たことないと言う。
 印の顔を見つめる。涙はそろそろ乾いてきたか。
「それで、なんだっていうの」
 美鬨が俺の肩に手を置いた。いつの間に俺の背後にまわっていたようだ。
 振り返ると、その姿はまさしく美鬨だった。赤い髪や白い肌ではない。気だるそうな瞼が印象的で、肩まで伸ばされた黒髪。
「美鬨……」
「アキの言葉を信じてみた。ら、魔法使えなくなった」
 愛おしい姿が視界を占める。どこにも怪我は見当たらない。
 魔法が消えたら、その怪我も消えたのか? ……いや、ところどころ、小さいが怪我が残っている。
 結局、捉え方の問題なのか。
 肩にのった手をとって、もう片方の手を背中にまわした。美鬨の捉え方を、正面から受け止める。やわらかい体を受け止める。
「それじゃ、僕はこれで……」
 印の声が部屋を跳んだ。はっきりとしたその口調は、歪んだ世界では震えて聞こえる。
 人の体温はこんなにもあたたかいものなのか。背中をなぞる指は、まるで俺の壊れた時計のように。狂った部屋で、じっと動かず抱きしめる。
 扉の閉まる音がした。

 ベンチに腰掛ける。
 二人でバスに乗ってみたが、結果は芳しいものではなかった。そのとき疑問が生じたのだ。「同じ場所であるように見えて、実は出発点と到着点は別の場所なのではないか」と。
 二回目の搭乗は、それを確かめるために、俺はベンチで待つことになった。美鬨だけがバスに乗っていった。
 あれから俺たちは、この町を出て行こうということになった。なんだか、馬鹿らしくなってきたのだ。大学に通って、職に就いて、結婚して、子供授かって、子供が独立して、老人になって、死ぬ。……そんな人生を俺たちは、死んだ後も繰り返そうとしていたのだ。もちろん、高校二年生で死んだのだから、それは全うな人生ではないのかもしれない。だが、だからといってやり直すときは全うな道を歩まねばならないとか、そんなことはない。もう優秀な、生物学の教授もいない。それよりはこの町を出て、新たな生活を探してみるほうがいい気がした。
 町を出るといえば、バスだ。この町を出るにはバスしかない。長い道路を通って、山でも越えて隣町に向かう。……はずだった。
 だがバスが着いた先は、出発点と同じ、このバス停だった。ベンチがふたつ、律儀に並んでいる。出発地点と到着地点が同じ――。要するに、町を出られなかった。
 バスがやってきた。バスから女が降りてくる。美鬨だ。
「あ、アキ」
「よう。また会ったな」
「ほんとに、回ってきちゃうみたいだね」
 入り口と出口が同じになっている。真っ直ぐ進んでいるはずなのに、いつの間にか方向転換している。
「うーん。これは閉じ込められちゃったかも」
 町の規模での密室事件。
 だが、例えば星下小唄なんかは、このバスに乗って外へ行ったことがあるはずだ。ンタンさんも確か、隣町の大学に用があるとかでバスに乗っている。……あれ? そういえばンタンさんに手紙があったとか聞いた覚えがある……。差出人は確か、「印」だったのだっけ。その話を印に訊くのを忘れていたな。まあどうせ、それも印の仕業だったのだろうが。
 ……本当にそうか? なぜンタンさんを町の外へ出す必要があった。一番考えられることは、印も言っていた通り、同級生でない人間を排除することなのだろう。だが、なぜわざわざ手紙で呼び出したのだろう。美鬨の両親は、家に勝手に押し入れられて襲われたというじゃないか。印の魔法――幻想であっても、この町ではそれが現実になるのだから魔法として機能していたはずだ――があれば、ンタンさんに押しかけて、そのまま排除することができたはずだ。考えれば考えるほど分からなくなってくる。
「えーっと……なぜに深刻な顔?」
 美鬨がそう声をかけてきた。……そうだ。一人で考える必要はない。
 今抱いた疑問を、そのまま美鬨に伝える。
 すると美鬨は、あっけなく言ってのけた。
「そんなの、ンタンと私を闘わせるためだったんじゃないの?」
「それは……どういう意味だ?」
「端唄がいなくなってしまったから変更になってしまったんだろうけど、印くんにとっての『仕上げ』っていうのは、本当は他にあったってこと。本当は私とアキも仲間みたいなのに加えて、一緒に町を天国に創り上げようとしてたんだよ」
 美鬨の意見を、じっくりと噛み締めてみる。
 言われてみれば、そうだ。そもそも美鬨を魔法使いにした理由があるはずだ。だが俺は、それを印から聞きださなかった。だから不明瞭になってしまった。
 つまり、印はこう目論んでいたのだ。美鬨を魔法使いにして、美鬨が俺をパートナーにして……そうやって同級生が全員集まって、自分たちの天国を創り上げる。みんなで創り上げる、地上の天国。
 印は端唄に恋愛感情を抱いていた。……一度デートしたぐらいで勘違いしてしまっているのは少々残念だが、それはともかく、その恋愛感情が発端となった。発端となって、どんどん目標は広がっていった。いわば宗教活動だ。印は現実世界に天国を築き上げようとしていたのだ。それも端唄一人のためではなく、自分のため、俺のため、美鬨のため……みんなのために、だ。
 もちろん最初は端唄一人だけのためだったに違いない。だが、そんなもの世の革命家たちはみんなそうだ。一人の女を抱くために世界を救う。そんなものだ。
 だが失敗してしまった。その結果、最後の「仕上げ」も、変更せざるを得なかった。
「……そういうことだったのか」
「ねえ、アキ」
 俺の深刻な表情に飽きたのか、それとも最初からつまらなかったのか、美鬨が明るい声で言った。
「私たちってさ、死ぬ前からカップルだったみたいだね」
「ああ、そうだな」
「アキモトくん。ふふ」
 ――もう終わった話。印もそう言っていた。
 俺たちがこれからすべきことは、前へ歩んでいくこと。
 そのためになにをすればいいのか……残念なことに、まだいい案は出ていない。



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