おりじなる小説MAKER A面


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 魔法。
 その定義は、山ほどあるが、ひとつだけ、ここで紹介しておこう。つまりは、この物語上で用いられている定義である。
 魔法とは、科学の頂点を越えた存在であり、同時に科学とは、魔法の頂点を越えた存在である。
 さらに、魔法というものを科学の観点から推測すると、俗に言う「呪文」や「おまじない」などによるエネルギーから、物質を創り出し、それらを組み合わせて物体を作っているとされる。
 それにより、質量保存の法則、エネルギー保存の法則は解決される。
 残る問題としては、原子の形自体が変わることになるので、革命的な発見がない限り、この原理は間違っているのではないかという説のほうが強い。
 しかし、原子へ誤解があるのでは、という説も挙がっており、魔法と科学についてさらなる技術の発達なくしては語れないというのが、現状だ。
 ここで少し話を替えると、魔法のいわゆる「呪文」についてである。
 呪文。おまじないとも言うそれは、前述の通り化学エネルギーとなるわけだが、それの必要の有無について、話していきたい。
 たとえば、ある人物Aが、「炎の書」を持っていたとしよう。それを使うとき、Aは「炎の書」と叫んだそうだ。しかし、人物Bは、同じ魔法を「ファイヤー」とでも叫んだらしい。
 どちらも結局は同じ魔法であることにはかわりはないが、呪文に差異が生じているのである。
 これは、呪文の必要性について深く考えさせる事柄である。
 ここで、私の意見を出す。
 呪文は、必要ないのではないだろうか。
 つまり、創られる物質の元となるエネルギーは、「呪文」なのではなく、「魔法を用いたい意志」なのではないだろうか。
 魔法を発する。
 そうしたい気持ち。
 おそらくはそういうことなのではないのだろうか。
 呪文やおまじないは、その気持ちをはっきりとさせるため。
 それが、魔法なのではないだろうか。
 ところで、言い忘れたが、このページはこんなことをぶつぶつ独り言のように呟くページになりそうなので、読者はこの先を読まなくても十分この先の物語の進展を理解できることだろう。このページは、私がそう書きたいから存在するのであって、決して無意味というわけではないのだが、だからといって確固たる意味があるわけでもない。
 物語は、作者の気分によって変わる。
 そんなことをいつか書いたはずだ。
 その通り。強いていうなら、このページはその証明、ということにでもなるんだろう。
 しかし、このページにとんでもない秘密が隠されていたとしても、読まなかった自分の責任であって、そのへんを理解いただきたい。
 次に、運命について、もう少し語っていこうと思う。
 なぜかというと、ただ、そういう気分だからである。
 運命論。
 一般的に言うと、運命とは、原因があれば結果があり、原因が同じであるならば、結果も同じになるというものだ。
 つまり、重力のあるところでボールを持っていた手を離すという原因があれば、ボールが落ちる、という結果があり、またそれを同じ条件で同じ原因の「手を離す」という行為があれば、必ず「ボールは落ちる」という結果になるということだ。
 さらに、因果律。
 物事にはかならず原因があり、その原因にも当然ながら原因があるということである。
「ボールが落ちる」という結果があれば、「ボールを持っていた手を重力のある場所で離した」という原因があり、それにも、例えば「なんとなくそうしたかった」という原因があり、それにも、「ボールを持っていたから」という原因があり、それにも、「ボールを拾ったから」という原因があり、それにも……。
 というように、あるどうでもいい出来事を遡れば、世界の起源にたどりつくのでは、という考えだ。
 その、「運命」と「因果」。
 それらを組み合わせて考えれば、まるで世界がループしているように思えてくる。
 また、世界の始まりと終わりが、はてしなく感じてくる。
 そうした、世界が無数に集まって、人が、人の人生が、構成されている。
 それが、人間。
 だろう。
 それだけだ。
 他に、特にここで言いたいことはない。

(で、このページはなんだったんだ? [39]へ続く……)

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