第ゼロ章


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デウス・エクス・マキナ


* エウロパ

 レールの上を歩く。黒い筋の上にいると、不思議と頭脳が刺激された。緊張しているんだ。主人公は唾を飲み込んだ。ここは安全だけれど危険だ。
 氷の奥底に魚が見える。主人公は魚を追いかけようとして、レールを外れる。黒い線条が欠けた。慌てて、レールの上に戻る。重たい靴を履いてくるんじゃなかった。主人公は少し後悔する。
 ここからは木星の大赤斑がよく見える。よく分からないけれど、きっととても速く自転しているのだろう。
 レールの上を歩く。ここは寒い。エウロパは今、木星の背の位置にいた。太陽の光が、届かない。深い氷の底が、徐々に延びていた。
〈時間だよ――〉
 地球からの信号が、木星を突き抜けてきた。透過性をいつの間に解明していたらしい。主人公はレールの上を走った。バランスは崩れない。重たい靴が進んでゆく。エウロパの黒い筋。凍って溶けて、また凍る。
 魚はいつまでも死なない。

* 箱の猫が生きている世界

 地球の北半球に、日本と呼ばれる列島がある。主人公は命令に従って、そこに来ていた。バスに乗って目的地へ向かう。
 鳥取県――標識がエリアを示す。
「あ、ここで停めてください」主人公が運転手に告げる。「目的地に到着しましたので」
「え、いやいや、それは困りますよお客さん」運転手はハンドルを繰りながら、視線を逸らすことなくそう答えた。「高速道路では、簡単には停まれませんて」
 バスの中には、運転手と主人公しかいない。他に乗客はいなかった。奇しくも乗車券がまったく売れなかったのだ。主人公は席を立ち、運転手の横に立っていた。運転手がいくら着席を促しても、主人公は一向に応じない。
「いいから。降ろしてください」主人公は拳銃を取り出した。どこから取り出したのか本人も理解できていなかったが、それを運転手につきつけた。運転手はブレーキをかけた。幸いにも後方に車はいなかった。
 主人公が降りると同時に、運転手の記憶は消去された。バスの中に乗客が数人現れた。運転手は、自分がなぜバスを停止させたのか不思議に思ったが、納得のいく答えは得られなかった。バスがまた動き出す。

* 箱の猫が死んでいる世界

 田んぼを踏みつける。ぷんと快いにおいがした。主人公は自分の足が沈んでゆくのを感じる。このまま地球の反対側へ行ってしまいたい。衝動に駆られた。しかし主人公は、命令を果たさなければならない。
 田んぼを踏み潰しながら歩いた。足は容易に沈む。しかし持ち上げるのは困難だった。土は鎖となって靴に絡まる。
 夢の中のようにそこは静寂に包まれている。ただ、嗅覚が、うるさい。主人公は汗を流していた。日光はさほど強くない。影が揺れた。背景が滲む。少しずつながらも足を進めるが、しだいに足は重たくなっていた。
 そこへ、静寂を破るバスが一台。主人公は手を上げた。自力では進めないと判断したらしい。バスが停まる。
 バスの中には誰もいなかった。主人公はバスに乗る前に、靴にへばりついた鎖を取り払った。そのうちの一部が蛇となって主人公に噛み付いた。
 視界が歪む、バスに駆け込んだ。誰もいないのに、なぜ動いていたのか、なぜ主人公の前で停まったのか。毒が廻って、考える余裕はなかった。
 倒れる。汗が吹き出る。暑くなる。寒くなる。
 ふたりの観測者が出会う。矛盾が生じる。宇宙がひとつでなくなる。バスが動き出す。
 主人公は死んだ。

* 複素数空間

 情念がくすぐったい。誰かが〈わたし〉の噂をしている。月が欠けてゆく。崩壊のカウントダウン。もう今年も終わりかぁ。〈わたし〉の発言に多くの人間が反応した。
 主人公は〈わたし〉の背中を見つめていた。〈わたし〉は情報発信機に集中していて、後ろにいる主人公に気付かない。〈わたし〉は幸せを感じているらしい。発言を残し、情報を拡散し、人々の感情を刺激した。
 ここはどこだろう。主人公はふと、〈わたし〉から目を離し、あたりを見渡す。そこはエウロパよりも寒い、極寒の暗闇だった。分子がマイナスの方向に揺れている。そのために絶対零度よりも低い温度が生まれているらしい。
 その中で唯一、〈わたし〉だけが実数を保持していた。虚数の空間に、〈わたし〉の存在が足されている。
 見ると〈わたし〉は泣いていた。主人公が背後にいることに気付いていた。情報を発信せずに、主人公を見つめている。流れる涙は凍っていなかった。流れて、落ちて。
「やっと会えた」と、その存在は言った。その発言は人々には伝わらなかった。途端、人々の築き上げていた塔が崩れた。「あなたを待っていた」人々の言語が別れてゆく。
〈わたし〉は孤独だ。多くの富を、多くの情報を持ちながら孤独だ。それが主人公にはよく分かった。
「ここはどこ」と、主人公は〈わたし〉に訊ねた。訊くまでもなく主人公には分かっていた。しかし訊かなければ気が済まなかった。
「みんなの知らないところ――」〈わたし〉の言葉は脳を介さなくとも理解できた。主人公は耳を押さえようとして、自分の頭がなくなっていることに気付く。「みんなが生まれたところ」
 みんな、とはなにか。それはあの崩れてゆく人間のことか。主人公は疑問を抱くと同時にその答えを得た。しかし質問しなければその答えは虚空となって消えていった。霧よりも細かく、砂粒の数よりも多く。
「もう、行かなければならない」主人公は〈わたし〉にそう告げた。
「いや、だめ」涙を流す〈わたし〉は、まるで赤ん坊のようにわがままだ。
 情念がくすぐったい。それが愛であることに、主人公は薄々気付いていた。〈わたし〉が振りまく愛は、知恵を得ようとしている主人公にとっては、むずがゆく響く。
「行かないで。もう行かないで」柱は支えられた途端に弱くなる。無償の愛は、返された途端に脆くなる。唯一の存在はただひとりあればいい。
 行かないで、行かないで。〈わたし〉の涙を背中に浴びながら、主人公は、そこを立ち去った。

* 鳥取・大山だいせん

 山頂小屋で、オレンジジュースを飲む。戸を閉めればそこは暗い。ほこりの気配がある。あまり寒くはなかった。
 小屋を出て景色を拝んだ。
 不思議なもので、山頂、と決め付けられているにも関わらず、そこからはさらに上が見える。危険なのか人工の仕切りができている。主人公はそれを跨いだ。足場が悪い。重たい靴が滑って、主人公はそのまま転がり落ちた。砂と共に落ちる。
 意識が途絶え、陽極と陰極が反転した。

* オレンジジュースの中

 揺れる。波。起こる。揺れる。
 酔う。酒がなくとも人は酔うことができる。
 巨人の手の中で。
 人は飲まれる以外の宿命を選べない。
 転がる。濡れる。柑橘系の、甘い波。
 攪拌される。
 脳内。伝導する。ときにランビエ絞輪を跳躍し。
 笑うな。笑うな。
 飲み込まれる。

* 東京・井の頭恩賜公園

 主人公は瞬間移動をしたらしい。池の水を飲んでしまい噎せていた。池のそばで楽器の演奏をしていた男女が、唖然とした表情で主人公を見つめている。
 原因がなんであるか、主人公は思索し始めた。ジョウント効果か。あるいは。
〈時間だよ――〉
 信号が思考を遮った。と同時に、答えを主人公に差し出した。
 主人公は、山頂小屋の中にいるとき、戸を閉めていた。小屋の中にいたのは主人公だけであり、そのとき小屋の中は何者にも観測できなかった可能性もある。そのとき、主人公が小屋の中にいるという確率の他に、いないという確率もあったのではないか――。
 主人公は気分が悪くなった。自分の主観を蔑ろにされたのだ。時間遡行によって主人公の歴史が勝手に改変された、と解釈することもできる。
「あのー、大丈夫ですかー」
 先ほどの男女は、まだそこに突っ立っている。男が主人公に声をかけるも、その瞬間には男女は記憶を失くしていた。主人公は手の平に乗って地球を出て行った。

* コールサック

 暗黒に身を包んだとしても隠れることはできない。なぜならば暗黒は認識できる視覚情報であるからだ。主人公はその事実を知っていたが、それでも隠れようとせずにはいられなかった。怒り、というものを生成していた。冷却する。膝を抱えるシンドローム。暗黒は確かに、その治癒の面を考慮すれば最適の座標かもしれない。
 心が闇で湿る。主人公の感情が風となってガスを集めた。そして舞う。言葉を発する気もなかったのに、喉がつまった。変な音が漏れて飛び散る。
 触手が主人公へと伸びてきていた。意思を持たない類の、地球の植物に似た生命体。ガスの中で、ガスとともに。触手に毒はない。あるのは根底で繋がっている本能――感情を捕食する本能。
 寂しいのは誰だい?……楽しいのは誰だい?……怒っているのはきみかい?
 計り知れない情報が生む磁気嵐。沈んでゆく。太陽の黒点が小さくなっていた。暗黒の中で時間は必要か。孤独に季節は必要か。
 触手が主人公を撫ぜた。主人公から怒りの感情が消え失せてゆく。コールサックの奥部で。主人公は徐々に冷静になってゆく。触手が栄養を得る。
 暗黒の時間の隅で、孤独の季節の中で、青嵐のようにみなぎった。
 暗黒星雲を飛び出した。主人公は進む。新たな誕生を求めて。

* 海が綺麗な街

「小説を人間になぞらえてみようじゃないか。するとね、見えてくるんだよ。小説の集合的無意識がね」
「集合的無意識? ユングのあれのこと?」
「そうさ。先天的に人間に備わった、共通の概念のことさ。心の原型と言ってもいいかな」
「それはあなたの私見、ということでいいのかしら」
「まあ、いいんじゃないかい。言葉による完全な伝達はありえないのだからね」
 窓の外に見える海は、静寂を波で包み込んでいる。ここからは視認できない魚たちが、生をつまみ、死を吐き出してゆく。無慈悲な連鎖を繰り返す。
「小説の集合的無意識――つまり、ある範囲におけるすべての小説の根底にある共通項、小説が生まれる前から、小説の中に組み込まれていたもののこと」
「あまり話が見えてこないわね」
「理解できなくてもいい。教会に通う人のように耳を傾けてさえいればいいよ。それだけで充分、奇蹟は発生されうる」
 風が強くなったから窓を閉めた。海が見えなくなる。そのとき、ふたりにとって、海が存在するのかしないのか分からなくなった。窓を閉めてからこの瞬間までの間に、もしかしたら海が消失しているのかもしれない。その可能性はあるのだ。
「きみはなにを想像する? 小説の冒頭一文字目が書かれる前に、既に小説の中に現れている存在――」
「そんなもの、あるのかしらね。小説は書かれなければ小説ではないのではないかしら」
「さっきからきみは、『かしら』、『かしら』と、そればかり言うね」
「なぜかしらね」
 主人公は窓のそばで、ふたりの会話を盗み聞きしていた。風が強く、砂が容赦なく主人公に降りかかっている。窓は先ほど、ふたりのうちどちらかが閉めてしまった。窓も砂に覆われ、そのために主人公は窓の奥を覗き見ることができない。
 もしかしたらふたりは窓の奥に存在していないのかもしれない。その可能性もあるのだ。主人公は思考を巡らせた。テープレコーダーがあれば会話は成立する。
「ともかく……そうだな、小説に絶対に必要なものはなにか、と置き換えてみれば分かりやすいかもしれない」
「登場人物?」
「いいや、登場人物ゼロの小説も実在するよ。もちろん、ここでいう登場人物というのは、人間に限った話ではなくて、たとえば動物とか、無生物のモノにも適用される」
「じゃあ、物語、かしら」
「ああ、惜しいかもしれない。きみのいう物語が、『ストーリー』という意味の物語であるなら、それは間違いだ。ストーリーのない小説も実在するよ。景色を文章で写生して、それだけの文章であっても、それは小説と呼べてしまうのだからね」
 主人公は海を眺めながら、ふたりの言葉に耳を傾ける。とてもではないが、他人事には聞こえなかった。
「正解を言ってしまえば、それは〈語り部〉だ。物語――つまり、『ナラティブ』――を叙述する、その存在だよ」
「それが……語り部が、小説に不可欠なものってこと?」
「そう、そういうことなんだ。……ここで、そもそも『小説』とはなにか、という点を整理したほうがいいかもしれないね。小説とは、叙述された物語(ナラティブ)のことだよ。『ナラティブ』に叙述という意味も含まれているから、一口に『小説とは叙述のこと』と言ってしまっても構わない。いや、むしろこれこそ答えだろう。小説とは叙述のことなんだ」
「叙述、という言葉は、書かれたもの、語り、といった意味でいいのかしら」
「その通りだよ。ただしひとつ付け加えるなら、それが『虚構』であるということだ」
「虚構……というと、事実ではない、フィクションのこと?」
「そういうことだね。……ただし注意してほしいのが、フィクションというのは、事実をもとにした場合と、真実をもとにした場合、そのふたつの可能性を内包しているものだということなんだ。実際に起こった出来事の『事実』と、その対極の『真実』。このどちらをもとに叙述されたとしても、それは虚構――フィクションだ」
 主人公は頭を抱えた。砂に埋もれながら悩む。窓の奥の会話は主人公には難しく、同時に易しかった。この葛藤が主人公を苦しめる。
 海が波を立てて静寂を飲み込んだ。
「話がいくらか逸れてしまったようだね……で、小説とは叙述のことということだけど、この叙述の主体というものが、〈語り部〉のことなんだよ」
「小説を作り上げるのが、〈語り部〉だということかしら」
「いいや、違う。小説を作るのは『作者』だ。言っただろう、小説の集合的無意識――先天的に宿っているもの――それが〈語り部〉なんだ」
 作者は〈語り部〉を選択し、装飾することはできるけど、〈語り部〉そのものを作り上げることはできないんだよ。――会話は一旦、そこで途切れた。プラトンを思わせるような締め方だ。
 主人公は考える。この会話における「小説」の論には、欠陥がある。まず、詩はどこへ行ったのだ。「叙述のこと」という広すぎる定義では、小説と詩の区別ができない。
 風がやんだ。この街の滅亡も近い。
「風がやんだようね。窓を開けてみましょう」
「そうだね。……ところで、窓を開けた先に、海は見えると思うかい?」
「きっと見えるでしょうね。海が消えていなければ」
「そう、まさしくそのことだよ。海が消滅している可能性は、あると思うかい?」
「…………」
 主人公は驚いた。自分が考えていたことと似たようなことが、会話に出てきたのだ。窓の奥で会話をしているふたりは、はたして本当に存在するのか。いない可能性はないのか。その逆位置からの観測。主人公と海は窓の外にいる。会話のふたりは窓の中にいる。互いに観測できない。存在しない可能性を、互いに、意識内で孕んでいる――。
「……ない、わ」
「そうだろうね。未来を見てみたらその結果が表れる。だから安心して窓を開けることができる。……だけれどね、もし、我々が、未来を見るすべを知らなかったとしたら――」
「もしそうなら、さっきの議論も、今この話もできなかったんじゃないの? ユングも、フロイトも、未来の人だというのに」
「そうだね。きみの言うとおりだ。未来が見えなければ未来の話題に疑問を持つことなんてできなかった。小説という像も、〈語り部〉そのものさえ、まだこの星には生まれていない」
「この星には未来でも生まれないわよ。生まれたのは隣の星。どうしたの、疲れてるの?」
「そうみたいだ。少し、話しすぎたかもしれない」
 街が沈む。
 火星文明、最後の夜が明けた。
 主人公が目を覚ましたときには、五億年ものときが流れていた。また、この時代へ戻ってきたらしい。主人公は立ち上がった。
 そこは砂漠のようになにもなかった。窓も海もなにもない。
 けれども依然、風は強い。

* 北海道・小樽

 修学旅行生らしき女子高生たちが、店舗の看板を見てげらげらとはしゃいでいた。
 その後ろをついていっていた、別グループの女生徒が、「あ、道一本間違えてる!」と言った。パンフレットを指でなぞっていた。
「なにはともあれ、女子高生を眺めるというものは実に健康的なことですなぁ」
 反対側の歩道で、ふたり組みの男がベンチに座っていた。そのうちのひとりが、片方の小声の発言にうんうんと頷く。
 そんなものなのかもしれない。主人公は思う。物語なんて、そんなものなのかもしれない。どんな物語を書いたところで、その中途で無理矢理に着陸させてしまうことは、恐ろしいほどに容易なのだ。その点において、作者という存在は、〈語り部〉をはるかに凌いでいるはずだ。
 デウス・エクス・マキナ――。
 それは決して、神を示しているわけではない。あの女子高生を示しているのだ。

* 空白の流れの一点

 主人公は靴を脱いだ。重たい靴は、主人公の肩を攻撃する。しかしそんなことはこの流れの中では些細なことだった。
 主人公の目の前に、主人公がいる。
 隙間を空白が流れてゆく。その色が眩しく思えた。
 混ざり合って、また分離する。
 目の前の主人公に、靴を渡した。主人公はそれを無言で受け取って、流れの中に浸した。靴を履いた途端に、主人公は流されてゆく。
 裸足になったその存在は、流れ去った主人公とは逆の方向へ歩いた。
 命令は果たした。その存在には帰るべき場所がある。帰るべき物語がある。

第二部

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© 2013 Kobuse Fumio