地球少女探査録


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四‐存在しない果ての声



プリイザヤ紀元二〇〇五年 一一〇〇度

 毛布が言った。(進化に果てはあるのか)と。
 彼女は答えようと口を開けるが、声を出すよりも早く、(あるとしたら、それは宇宙の滅亡だ)と毛布が言い放った。(進化とは、生き残るということだ。進化は決して発展を意味するのではない。進化した姿が、以前よりも弱弱しく、以前よりも機能の少ないものであったとしても、なんらおかしなことではない)
 毛布は波のようにうごめき、どこから声を発しているでもなく声を発する。
(変容を遂げ、その姿が環境に選択されるか、淘汰されるか、そんなものは結果にすぎない。進化は結果を示すものにすぎない)
 なにを基本的なことを言っているのだろう。彼女は疑問に思う。――彼女に話しかけている物体は、まるで小惑星のようであり、薄い布のようでもあったが、意思をもって動いているようだ。まるで生物に見えないが、生物なのだろう。
(しかし、ある時点にふと、新たな概念が生まれる。進化は発展であり、進化と退化が対義語であるという考え方だ。あれはどこがはじまりだったか――進化を種ではなく個のものとして捉えた、愚かな誤謬として、その革命的な考えははじまったのだ)
 彼女は言葉の途切れ目を探して、見つけるごとに自身も言葉を発しようとするのだが、どうしても上手くいかない。それは毛布がとめどなく言葉を流すせいであったが、彼女自身、放つ言葉を考えあぐねているせいでもあった。
(種が個を内包していたはずが、この誤謬の浸透により、種を逸脱する個が現れてきた。わかるか――はじめは架空の生物であったはずが、愚かなことに実在してしまったのだ。種と個が同等になるでもなく――種を必要としない完全なる個が現れたのだ)
 だんだん、彼女にもその言葉は理解できなくなっていた。しかし、それと同時に、頭のどこかの部分でわかっている。自分が別れてゆく心持がして、思わず自身の胸に手を置いた。心臓はひとつだ。
(わかる――その心臓は人工器機だ。しかしそうだからといって、生命体でないとはいえない。種の概念が打ち壊れてしまったのだ。定義から外れた生命体があったところで不思議なことではない)
 あの毛布は心が読めるのか。彼女は戦慄した。
(読めるのではない。心がいかように構成されているのか、知らないのか。わからない――便宜的に、心の因子を情報波と呼んでいる。光や電磁波などの波動のようなものだ。それを観測すれば、他者の思考は読むことができる。さながら箱のなかの猫のように、心にうまれた感情を、情報波を観測することによって波動関数が収束するのだ。わからない――思考とは内なるアウトプットなのだ)
「ここは、宇宙の果てなの?」
 やっとのことで、彼女は言葉を挟み込んだ。毛布の垂れ流した内容とはいくばくか関係のない言葉だった。それでも、毛布は文句というものを言葉にせず、彼女の言葉を純粋に汲み取ったようだ。毛布が幼虫のようにうごめく。
(わからない――ここは宇宙の果てではなく、同時に宇宙の果てである。そもそも宇宙に果てなどない。三次元の空間に縛られている限り、果てなどは存在しない。あるとしたら、それは、宇宙の滅亡だ)
「宇宙の、滅亡」
(ただし終わりと始まりは表裏一体だ。宇宙のはじまりである特異点において無限大とゼロが一体であるように。わからない――宇宙の果てとは、あるいは、宇宙のはじまりを指すのかもしれない。しかしそんなことは関係ないのだ。わからない――問題なのは、この存在しない果てに、生命体の定義からはずれた生命体――あなたのことだ――が迷い込んだという事実だ。この事実は、この宇宙に新たな可能性を授けるだろう)
 わからない、わからない、わからない。
(存在しない果てが観測されたその瞬間、不可逆性は破壊されるだろう。いや、いままさに、あなたがその矛盾を起こしたのだ。――しかし案ずることはない。万能だった不可逆性が価値を失くしたとしても、進化という結果は変わらない。進化とは生き残るということなのだ。この体が――本来の地球人に戻ったとしても、それは退化という進化である)
 本来の地球人?――彼女はその言葉を汲み取り、心を揺さぶらせる。
(いつがはじまりだったのだろう……愚か者がいたのだ……個が種を逸脱する……)
 毛布は唸って激しくうごめいた。彼女はその姿から、意味もなく悲しみを連想し、自身も悲しみに包まれてゆく感覚をいだいた。まるで、ここは。
(逸脱した個が、どんな凶行に走ったかあなたは知る由もないだろう……個は種を支配下に置いたのだ。個が種を内包した。その結果が生み出した空間が、この存在しない果てだ。あなたの脳は毛布として認識しているようだが、それは既存の認識になぞらえることで、見えない状態を防いでいるにすぎない。本来の姿を見ることは決してできないのだ――この、地球人の進化しきった姿に。存在しない〈ここ〉は、〈ここ〉であると同時に地球人のいまの姿なのだ。なぜ地球人か――個と種を入れ替えた愚か者が地球人だったからだ――。ヒトという種は、いま〈ここ〉で、個という結果として存在せずに存在している。その悲しみがあなたにわかるか。生命体でないにも関わらず生命体であるあなたに、本来は人形であるあなたに――)
 地球人がうごめく。わからない、わからない、わからない……。あの毛布が、地球人の終わりの姿であったとして、それをどう信じればいいというのだ。わからないわからないわからない。長い時間を生きてきても、わからないことが多すぎるのだ。
 果てはどこにある? 人類が少しずつ歩んでゆく進展の先には、〈ここ〉のような絶望しかないのか? 進化を発展とみなしたことが、それほどの罰を与えるものなのか――?
 彼女にはわからないことが多すぎた。グリーンプラネットにいたことが、過去のことなのか、未来のことなのかさえわからなかった。しかし、わからないなりにも、わかることがひとつだけあった。
 彼女はもはや、地球生まれであるのに、地球の生命体ではなくなっていたのだ。
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