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*二


 無論、はじめはまさかあの女性がスライムであるなどとは、露ほども思わなかった。あの後手に応急措置を施し、壊れた望遠鏡をひいこら言いながら持ち帰り、寝床に着くまで、そして夢から醒めてからも焼けた手とスライムの吐き出す体液を結びつける発想は出てこなかった。ただ、不審な女性に酸をかけられたのだという被害意識と、すぐにでも捕まえて慰謝料をぶんどってやるという情熱意識が芽生えるばかりで、研究に関わる脳味噌は一旦の間停止していた。それは止むを得ないことかもしれないが、筆者としては、この上昇しやすい性格をどうにかしたいと思わないでもない。そのために発見が遅れたのだから、そうだもし、筆者がもう少し冷静で、それでいて発想の柔軟性に富んでいたならば、被害者は出さずに済んだかもしれない。
 そう。被害者が出たのだ。
 一人目の被害者は中年の女性だった。やはり公園に出没した彼女は、こどもたちが遊んでいるのをじっと見つめていたらしい。それを不審に思った中年女性は、単身彼女に話しかけ、そしてそれがエスカレートして筆者のように掴みかかった。両腕を酸のなかに突っ込んでしまった。
 二人目も時を待たずして出てしまった。今度は老人だった。夜中、公園に現れた彼女を、こんな夜中に女がなにをやっとるんだと老人が叱咤、しかしなにも返事を言わず佇んだままの彼女の態度に腹を立て、蹴ろうとしたらしい。まったく最近の若者は、と交通機関を使いながら大声で電話をしている老人の姿がありありと目に浮かぶ。それはともあれ、同じ公園で、二人もの(筆者含めると三人もの)被害者を出したのだから、治安局の人間も黙ってはいられない。
 魔王討伐を達成し数年経っている現在において、この街は平和だった。しかしまた新たな不気味な影が忍び寄りつつある気配を、誰しも少しは感じたことだと思う。筆者を含める、当時魔王討伐隊だった人間の一部で結成された治安局は、結成当初からもっぱら暇人の集まりで、ろくに働くこともその必要もなかった。その我々が動かされるというのだから黒い影を感じてしまうのは致し方ない。
 速やかに不審者対策委員会が結集された。メンバーはどれもなじみの顔だった。かつてともに旅をした仲間たちだ。茶色味のかかったぼさぼさ頭がなぜか土産物の菓子をメンバーに配っている。どこかに行ってきたのかと聞いてみれば、彼自身はどこにも行っていないのだという。だが彼の鬼嫁(拳法の達者な、やはりかつて旅をともにしたあの鬼嫁)はいろんなところにツアーで遊びきりらしく、これはその土産なのだそうだ。
「あんたも大変ね」
「まあ、おれは楽しくやってるけどな」
 なにが楽しいのかはわからないが、結婚後も順調にやっているようだ。
 また話が逸れてしまった。なお、このテクストは上層部からの指示により個人名を出さないようにしている。人が勝手に書く文章に指示を出すとは生意気だが、近頃は大衆の目が厳しいという。魔王討伐の達成により武器の生産量が低下したかと思えば、こういう文化面の大衆意識が向上していき、知識人としては少々やりづらくなった節はある。いや、それでもだいぶん自由に書かせてもらってはいるのだが、ともあれ、このテクストでなんらかの二次的な問題が生じることのないように、あらかじめ個人名は出さない方針でいるのである。
 余談はそろそろここまでにしよう。委員会のメンバーは以下の五人だ。前述のぼさぼさ頭の彼、普段は教会で聖職者をしている金髪の彼女、その兄の苦労が多いのか髪の白い彼、それともう弓は握れない青い髪の彼と、そして筆者。治安局にはこのほかにぼさぼさ頭の鬼嫁と旅をしている当時リーダーだった彼も登録されているが、鬼嫁のほうは自由気ままに旅行ばかりを楽しんで不在なことが大半であるし、リーダーにあたっては現在消息さえわからない。いまどこをうろついているのかも、わからない。
 ひとまずこの五人で対策会議は開かれた。土産の菓子をほうばりながら適宜話し合い、筆者と青髪を除く三人が、さっそくその不審人物に接触してみることになった。筆者は三人に、こちらから話しかけたとき彼女はなんの反応も示さなかったこと、ただし触ると手が焼けただれていたこと、そしてその直後に消えていたことを説明した。
「それってつまり、すごい速さで、逃げていったってことですかぁ?」
 菓子の袋で山を作っている金髪の聖職者が、疑問を投げかける。筆者は首を振った。わからない、という意味である。そう、なにもわからない。一応、いくらかの仮説は立てることはできる。まずひとつが、さきほど聖職者が発言したように、ただ単に速く移動して視界から消えたという仮説だ。しかし公園の地形からして、それは難しいのではないかというのが筆者の見解だった。筆者が流星群を観測していたのは公園の半球状の遊具の上だった。そして彼女と接触したのもそこだった。そこは公園のなかでブランコの次に高いところであり、充分に公園の全体を見渡すことができる場所だった。走って逃げたのだとしたら、少々考えられないほどの速さを保持せねば実現できない。またほかの仮説に、単に姿を見えなくしただけでそこには存在していたのではないかという仮説。光学迷彩とはよく言ったもので確かにその可能性は考えられるが、問題なことに、そのどちらも否定できてしまうのだ。現代で実現できる光学迷彩はおよそ二パターンある。ひとつはモニタとコンピュータを使い、カメレオンのように自身のまわりに映像を流すことだ。周囲と溶け込むように映像を身に纏うことで臨機応変なカメレオンのような迷彩が可能になる。またもうひとつのパターンは、周囲の光の屈折率を負にすることで、あたかも透明人間のように光を通過させるように錯覚させる方法だ。このどちらの方法も、本来は効果的に作用される技術ではあるが、筆者と接触したあの夜だけは勝手が違った。あの夜は流星群が流れていたのだ。そして流星群は、暗いところでしか見ることはできない。街のなかで見ることのできる場所はないかと、前日まで筆者も自転車で走り回ったものだ。電灯のついていないあの公園を流星群の前日にようやく見つけ、うきうき気分で望遠鏡を持っていったのだ。なにがいいたいのかといえば、このどちらの光学迷彩の方法も、ある程度の光を発さなければ作用しないのだ。ひとつめのパターンの光学迷彩の場合、暗闇に溶け込むためにはモニタの電源を切るのではなく、暗闇にまぎれるような黒い光を出さなければ身を隠すことにはならない。暗闇のなかで光なしに佇むのと、暗闇という黒い空間のなかで姿を見せないようにすることは必ずしも同義ではない。そもそも流星群が見えるからといってそこまで暗かったわけではないのだから、モニタの電源がついていなければふつうに彼女の姿は見えていたはずなのだ。彼女が筆者に顔を向けていることに、流星群を見ながらでもわかったように。また同じ理由で、ふたつめのパターンも否定される。光を曲げるには結局光がなければならない。それはほんとに微弱なものかもしれないがこの街中においてそんなギャンブルをするだろうか。だいぶ説明が長くなってしまったが、であるから、彼女は速く走って逃げたわけでも、光学迷彩によって姿を隠したわけでもないはずなのだ。それ以外のなんらかの方法によって、筆者や中年女性や老人の目の前から消えたことになる。
「もしかしたら幽霊なのかもしれない」
 そういうのは聖職者の兄だった。白髪を親指と人差し指でつまんでいる。
「そうかもしれない」
 その意見には、首肯するしかできなかった。
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